新型コロナウイルス感染症の影響拡大により在宅勤務を導入する企業も増えましたが、その一方で、日本固有のハンコ文化が在宅勤務を困難にする一因となっていることが改めて浮き彫りになりました。書類に印鑑を押す実務は行政や金融機関に深く根付いている、というイメージを持たれる方も多いと思います。しかし、金融機関による印鑑レスに向けた取り組みは、新型コロナウイルスの感染拡大前から始まっています。
利便性と安全性
脱ハンコのメリットとして利便性が挙げられることも多いのですが、ハンコ文化の歴史を紐解くと、ハンコこそが利便性を追求した結果であったとも受け取れます。
明治10年、政府は、実印の偽造が横行したことを受け、契約上、実印の押印に加えて署名を義務付けました。しかし、大量の書類を扱う役所と銀行の要望を受け、規制は民民契約のみ、銀行取引も押印のみで可と緩和されました。行政や金融機関におけるハンコ文化のルーツはここにあります。
また、明治 32 年の商法制定時、署名が手形要件とされた際も、これに反発した民間企業の声を受け、議員立法により「商法中署名スヘキ場合ニ関スル法律」が可決され、押印と署名が同格化されました。この法律は会社法成立まで存続することとなります。このように、偽造・盗用リスクの観点からは明らかに署名の方が安全性は高いものの、利便性を追求した結果、我が国に固有のハンコ文化が形成されることとなりました。
金融機関による印鑑レスの取り組み
ハンコ文化の象徴ともいえる金融機関ですが、近年、ネット銀行の参入やテクノロジーの進化(フィンテック)と相俟って、印鑑レスに向けた取り組みが急速に進んでいます。
ネット銀行以外の主な銀行による印鑑レスへの取り組みは以下のとおりであり、印鑑レスの口座開設を導入する動きは地方銀行や信用金庫にも広がっています。
りそな銀行 | タブレット端末に指の静脈情報を登録することにより、印鑑レスで口座開設が可能 |
三井住友銀行 | 専用端末にサインを登録することにより、印鑑レスで口座開設が可能 |
三菱UFJ銀行 | スマートフォンアプリ「口座開設」の利用により、印鑑レスで口座開設が可能 |
印鑑レス社会の実現に向けた課題
記のとおり、印鑑レスの銀行取引は増加していますが、これらは個人向けのサービスであり、法人が金融機関に口座開設する際には、法人名称がある印鑑を届出印として登録する必要があります。
法人が当座預金口座を開設して手形を振出す場合、金融機関は、手形の押印が届出印と一致していることを確認して支払います。
法律上、手形要件として定められているのは「署名又は記名捺印」(手 形法75条7号、82条)ですが、判例によれば、署名の場合、①法人の表示、②代表関係の表示、③代 表者の署名の3つが具備されていれば法人の手形行為となる一方、そのいずれかを欠いた場合の取り扱いには争いがあるためです。この問題は電子記録債権の利用により回避できるものの、電子記録債権の普及率は右肩上がりとはいえ、まだまだ紙の手形には及ばないのが現状です。
お見逃しなく!
2020年6月、金融庁は、印鑑を使わない金融取引の拡大に向けて金融界と検討会を立ち上げ、融資や預金取引などに必要な契約書類の電子化を後押しするとともに、必要に応じた法制度の見直しも検討すると報じられました。
2019年5月に成立したデジタル手続法は、当初、法人設立における印鑑届出義務を廃止し、印鑑証明書の代替として商業登記電子証明書を利用することが検討されていましたが、反対意見を考慮して見送られました。
しかし、すでに、法人口座開設時の実印を不要(届出印は必要)としている銀行もあります。新型コロナウイルス感染症の影響拡大を機に、ペーパレス化や法整備が促進されれば、届出印も不要とする先進的な金融機関が現れ、印鑑レス化が加速度的に進むものと期待されます。